南大門を焼かねばならぬ?

金閣寺を焼かねばならぬ」とはかの三島由紀夫の小説「金閣寺」の名言だが、実際に金閣寺は焼かれてしまった。1950年のことである。北山文化を、ひいては室町初期の文化を代表する著名な建造物の消失に、当時の人々はさぞ肩を落としたことと思う。
先日、韓国の首都ソウルにある南大門が消失してしまった。放火が原因とされ、容疑者の男は他の文化財放火事件で執行猶予中だったという。動機は「腹いせ」だという。
どちらも歴史建造物を狙った犯行で、動機はどうあれ目的は「物の破壊」で共通だ。何かへの強い感情が、物への暴力へと向かった。そしてその「物」に由緒ある建造物が選定されたと言えよう。
韓国の件の容疑者は、文化財の代わりに自分の名前を歴史に残そうとでも考えたのだろうか。文化財が破壊された歴史は後世に残されても、破壊した人物の名はさほどは記憶されない。それは金閣寺放火事件の犯人の名「林承賢」が現代多くの人々に忘れられ、あるいは語り継がれなかったことが証明している。
積み上げられた歴史の前では、人はあまりにも小さすぎる。林がもし生きていたら、今回の件の犯人に対して、そう語るのではないかという気がしてならない。